2012年3月23日金曜日

三国志についての質問です。 荊州は呉の領地ですか?それとも蜀の領地ですか? ...

三国志についての質問です。



荊州は呉の領地ですか?それとも蜀の領地ですか?



しょうもない質問ですが、ご回答よろしくお願いします。







荊州をひとまとめにして呉か蜀かという話はできないんです。



もともと荊州は北から順に南陽郡、南郡、江夏郡、長沙郡、武陵郡、桂陽郡、零陵郡で構成されています。

荊州牧の劉表が存命中は曹操に抑えられている南陽郡の宛県を除いて、ほぼ全域を劉表が支配していました。

劉表の死後に曹操が南下し、劉表の後継者である劉琮が降伏すると、江夏郡以外は曹操の支配下になります。

江夏郡は劉表の長男である劉琦と劉備が確保していました。



曹操が赤壁で大敗すると、呉と劉備がともに荊州へ侵攻します。

呉は南郡の江陵県を奪い、劉備はもともとの江夏郡と別に長沙郡、武陵郡、桂陽郡、零陵郡を確保します。

曹操は南陽郡と襄陽県以北の南郡は保持したままです。(のちに曹操は南陽郡の一部から南郷郡、南郡の一部から襄陽郡を分割します)

劉備は呉の周瑜が江陵の曹仁を攻めている間に火事場泥棒のように荊州南部の諸郡を奪ったので、呉側が劉備が奪った荊州南部の領有権を主張します。

そのため急場しのぎとして、呉が奪った南郡の一部と交換ということで江夏郡と長沙郡、桂陽郡は劉備から呉へ割譲されます。

つまり、この時点では曹操が南陽郡、南郷郡、南郡の一部、襄陽郡を支配し、劉備は南郡の一部、武陵郡、零陵郡を支配し、孫権は江夏郡、長沙郡、桂陽郡を支配していたわけですね。



その後、劉備は益州を確保しますが呉とは荊州南部をめぐる火種を抱えており、関羽が漢中の劉備と連動するかたちで魏の襄陽郡に攻撃すると、隙をついて呉が蜀側の荊州南部へ侵攻します。

結果、関羽を敗死させた呉が蜀の支配していた南郡、武陵郡、零陵郡を奪い、その奪還に燃える劉備率いる蜀軍を呉の陸遜が夷陵で打ち破り、領土を確定させます。

結果、荊州は魏が南陽郡、南郷郡、魏側の南郡、襄陽郡を支配し、呉が江夏郡、呉側の南郡、長沙郡、武陵郡、桂陽郡、零陵郡を支配することになるのです。



※誤字を訂正しました。








荊州は一応呉の領地です。



荊州は魏・呉・蜀の三国のちょうどど真ん中に位置していたため、呉蜀にとっては中原進出の出先として、魏にとっては南征の出先としてまたとない領地でした。



元々は劉表の領地でしたが、彼の死後曹操の手に渡ります。赤壁の戦いの後、一旦劉備が占領し、その後劉備と孫権で割譲することになりましたが、二人は対立し、219年に蜀の関羽が襄陽の曹仁を攻めたときに、呉は魏と同盟を結んで関羽を討ち、続く222年の夷陵の戦いでついに荊州のほぼ全土を制圧することに成功するのです。



しかし、三国鼎立の草創期から魏も荊州に影響力を持っていたのも否定できません。そして時代が下るにつれてだんだんと魏・晋が荊州に侵攻するようになり、最期の孫呉征伐の際には、荊州は完全に晋の出先になっていました。



三国志の領地のなかでも、荊州は最も支配者が変わったまさに三国志の象徴といえる地ではないでしょうか。













呉の領地。

演義では劉備、孫権同盟成立時、曹操と対戦する条件に勝利したのち荊州の地を呉が支配するとされていた、赤壁の戦いの後、領土を持たない劉備が南荊州を含めた土地は他の地を支配するまで仮に貸し与え、その時に返還と約束されていた。

史実もほぼその通りとされている、ただ返還の交渉時はお人好し魯粛が諸葛亮の策略を入れ知恵された関羽が言いくるめられて帰らされているが、事実は堂々と理論で看破された関羽が逃げるように居留守を使って交渉しなかったとゆのが本当らしい。







荊州は劉表死後、魏の領土になりました。その後、赤壁の戦いとなり、勝利した劉備と呉の連合軍は追撃をしました。その際、劉備軍は荊州を魏から奪い取りました。関羽が太守となり、その地を治めました。その後、劉備軍は蜀の地に入りました。その時点では荊州は蜀の領地です。その後、呉に奪われ、呉の領地になりました。

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