2012年3月27日火曜日

三国志で次の武将の最期を教えてください。蜀、リョウカ、馬良 呉、カンタク、黄ガ...

三国志で次の武将の最期を教えてください。蜀、リョウカ、馬良 呉、カンタク、黄ガイ、韓当、程フ、魏、張リョウ、夏候トンです。宜しくお願いします。







夏候淳 220年没



曹操が亡くなると後事を託された夏候淳は大将軍に任じられたが、そのショックは大きくまもなく病に倒れて亡くなった。

夏候淳は部下にすべて分け与えるような人物で、自分は質素な生活をしてたという。

彼の墓は発掘されているが副葬品は一振りの剣のみであった。

演義では曹操の死の際に曹操を祟り殺した怨霊を目撃、夏候淳もまた昏倒してそのまま亡くなっている。



張遼 222年没



221年頃から張遼は病を患っていたが呉は不穏な動きを繰り返し、張遼は休む暇も無かった。

孫権は形ばかりの降伏しては再び出兵すると言うことを繰り返し、222年にも再び魏に対して戦端を開いた。

魏の皇帝となった曹丕は自ら親征し、張遼も病を押して出陣した。

そして病が悪化して亡くなった。

尚、演義ではこの戦いで呉の丁奉の矢を受け、その傷が原因で死去している。



馬良 222年没



馬良は劉備に従って関羽の敵討ちの戦いに参加、武陵に派遣されて異民族を手懐けさせ沙摩柯らを味方につけた。

ところが劉備軍は夷陵で陸遜の策に嵌って大敗し、馬良は戦死してしまった。

演義では夷陵では死なずに諸葛亮が南蛮征伐に赴いてまもなく、馬謖が諸葛亮の元を訪れ兄の病死を告げ、諸葛亮の陣に加わるという風になっている。



黄蓋 没年不詳



赤壁の後に南に赴いて蛮族の平定に活躍した。

時期は不明だがその後に病気に罹りそのまま死去した。

215年までには死去していたと思われる。

演義では赤壁以降は登場せず、死の場面は無い。



程普 没年不詳



周瑜が死んだ後に南郡太守となったという記述があるので、210年時点では生存していた。

程普が反逆者を数百人を惨い方法で処刑したのでハンセン病にかかって死んだという記述がある。

演義でも詳しい死の時期は不明である。



韓当 226年没



夷陵の戦いでも大活躍して昇進し、その後も将軍として活躍した。

226年頃、一万人を率いて丹陽郡の賊を討伐したがまもなく病気に罹り亡くなった。

死後息子が後を継いだが、孫権の逆鱗にふれて韓当の棺と共に呉に亡命するハメになった。

息子は後に魏の将として戦場で丁奉に討たれた。

演義では特にその死に触れられていない。



闞沢 243年没



243年に没した。

重く用いていた孫権は深く悲しんで数日食事を取らなかったということから、文官であるので病死とみるのが妥当である。

演義にはその死については登場しない。



廖化 264年没



廖化は永くに渡って蜀に仕え、功績も多かったので順調に出世し軍では姜維に次ぐくらいの地位となった。

263年蜀は魏に攻められて劉禅は降伏して滅亡した。

多くの将が姜維の起死回生の策の失敗による混乱で命を落としたが、廖化は生き残り劉禅らと共に洛陽に護送されることになった。

しかし、高齢であった廖化は蜀滅亡のショックもあったのか途中で病に罹り亡くなった。

演義でもその死は同じように書かれている。



・廖化の年齢に付いて

廖化は演義では黄巾賊の出身で蜀滅亡まで生き抜いたことになっている。

これだと、黄巾から蜀滅亡までおよそ80年あるので死亡時は少なくとも90代中盤と言うことになるが、直前まで出陣していたことを考えると無理がある。

259年頃に「70歳を過ぎて~」という発言が正史に残っているので、死んだ時70代後半と考えるのが妥当であろう。








正史『三國志』の記述を元に回答します。



・廖化(264年没)

蜀漢滅亡後の264年春、宗預とともに洛陽に移住させられるが、途中で病死。



・馬良(222年没)

夷陵の戦いに際し、武陵郡に派遣され五谿の異民族を帰順させたが、劉備が敗北し、馬良も殺害された。



・カン沢(243年没)

243年冬に逝去。死因の記載なし。恐らく病死。



・黄蓋(没年不詳)

周瑜の配下として赤壁で曹操を破って武鋒中郎将となり、その後武陵太守に任じられ、異民族反乱を鎮圧。その後、長沙郡益陽県が山越の攻撃を受けるとこれも鎮圧し偏将軍を加官され、その後在官のまま病死。



・韓当(226年没)

223年、石城侯に封ぜられ、昭武将軍・冠軍太守となり、後には都督を加官され、後に丹陽郡の反乱を鎮圧。その後、病死。

息子の韓ソウ[糸宗]は明帝曹叡の即位後に魏に侵攻し、曹休に敗れて降伏。韓当の死去はこの年。



・程普(210年?没)

周瑜の死後に南郡太守となり、孫権が劉備に荊州を分割して与える(210年)と江夏を治め、盪寇将軍に昇進した後に死去。死因の記載なし。

ハンセン病(らい病)というのは裴注に引く『呉書』の記述ですが、信憑性には疑問があります。



・張遼(222年?没)

221年に発病し、手厚い看病の甲斐あって持ち直したので任地に帰り、222年秋9月、曹休・臧霸らと共に攻め寄せた呂範を撃退。その後病気が再発し、江都で逝去。



・夏侯惇(220年没)

220年正月23日に魏王曹操が死去。曹丕が王位を継ぎ、同年2月3日に前将軍夏侯惇を大将軍に任じます。しかし夏4月25日に死去。死因の記載なし。

※inakanokenshiさん、夏侯惇の漢字を間違っておられますよ。



以上ですが、一応もう少し調べてみたいと思います。







【蜀】

「廖化」 西暦264年、蜀滅亡後、洛陽に移動する途中で病死。



「馬良」 西暦222年、劉備の軍に随行し、夷陵の戦いの敗戦時に殺害されました。



【呉】

「闞沢」 西暦243年、尚書僕射に任命されるも死去。病死かどうか不明です。



「黄蓋」 西暦218年、長沙益陽県の賊を討伐し、偏将軍職を得るも任の途中で病死。



「韓当」 病死のようですが死亡した年は『三国志・韓当伝』にも明記されていませんでした。が、『呉主伝』の記述と照らし合わせると、韓当が死んだ同年に子の韓綜が家族や部曲ら千人とともに魏に下った、という出来事があったようですので、韓綜が魏に下った黄武六年(西暦227年)に韓当が病死した、となるかと思います。



「程普」 西暦210年、江夏太守の在任中に病死。



【魏】

「張遼」 西暦222年、江都で病死



「夏侯惇」 西暦219年、大将軍職に任命されるも、数ヶ月後に死去。



以上。

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