2012年3月29日木曜日

三国志 赤壁の戦い

三国志 赤壁の戦い

赤壁の戦いにおける劉備軍の役割は何だったのでしょうか

特段何もせずにそのまま荊州攻略に向かったと記憶していたのですが、

何かの記述で曹操は「劉備にやられた」と述べたと書かれていました



赤壁で曹操を防いだのは周瑜(程普)ですよね

その後烏林での小競り合いで曹操が撤退を決意したとこまでは良いのですが、

(ここまでの流れは魏書や呉書の伝に見て取れたと思います)

劉備の活躍に関しては自分の記憶にありません

戦で最も被害が出るのは撤退時であるため、

わざわざ劉備の名を出すということは劉備も追撃をしたということなのでしょうか

周瑜ではなく劉備にやられたということは、少なくとも水上戦ではないですよね



それともわざわざ孫権に戦を決意させたところに遡って言ったのでしょうか

劉備(軍)が孫権に決戦を決意させたために負けた、と

孫権は劉備や諸葛亮がいなくても決戦を決めたとは思うのですがね・・・







武帝紀で「劉備に敗れた」としているのは…

①劉備の要請に孫権が応じたためという形式上

②劉備は孫権から援軍を受け戦闘に参加していたから

考えられるのはこの辺でしょうか。①はそのまんまですね。曹操の標的はあくまで荊州、そして劉備でした。曹操が江東へ兵を向けたのも劉備が夏口に逃げ込んだためです。標的である劉備が孫権を引き込んだため敗れた。だから形式上は劉備に負けた。ただ曹操自身は周瑜に負けたという自覚はあったようで、後年孫権に対し「(赤壁に敗れたことで)周瑜にこれほど虚名を得させることになってしまった」と手紙を送っています。



②については蜀書先主伝と関羽伝、それに魏書程昱伝に孫権が劉備兵を与えて抵抗させた旨の記述があります。劉備の具体的な行動は…



・赤壁で曹公を撃ち破り、先主と呉軍は水陸平行して進み、追撃して南郡に到着した(先主伝本文)

・周瑜が曹操軍を撃破できるものとは、まだ信じていなかった…(中略)…ちぐはぐな感じで後方におり…(中略)…進退どちらにも対応できる態度を取ったのである(先主伝註江表伝)

・(曹操が脱出したあと)劉備はそのあとやはり火を放ったが間に合わなかった(武帝紀註山陽公載記)



とまぁ追撃戦に参加したことはほぼ間違いないでしょう。その後の南郡攻防戦には確実に参加しています。劉備、関羽、張飛。全て参加していた記述が李通伝や周瑜伝から確認できます。

そして赤壁での睨み合いにも参加していたはずです。劉備は周瑜と樊口で合流していますし、同盟を要請した以上さすがに戦場にも行かず樊口でじっとしていたというのは有り得ないでしょう。ただし、江表伝にあるように手持ちの1万ちょっと(実数は5千程度と思われる)の兵力のうち派兵したのは3千、そして陣頭には立たず後方で控えていた。劉備が控えて場所は樊口ではなく「後方」です。陣の後方という意味なら矛盾はないはずです。つまり「劉備に敗れた」とするのは大げさかもしれませんが、最低でも戦そのものには参加しているはずです。



結論ですが、曹操の標的は劉備であり、その劉備が孫権を引き込み戦場で曹操と対決した。結果曹操は負けた。これなら「劉備に負けた」でも不自然ではないでしょう。








呉軍は降伏派がほとんどでしたので、孫権は開戦を決意したかどうかは微妙です。



諸葛亮は兵力が少ない劉備軍でも極地戦ではあるが魏軍を2回撃破したところをついて孫権の心を動かしました







まず、赤壁の戦いの前に劉備は、曹操の追撃から逃げ続けていて夏口に辿り着きます。曹操は対岸の烏林に兵を進めました。なので、曹操にとって赤壁の戦いは劉備の追撃戦の延長戦とも言える。それまでの強行軍が影響してか兵の消耗が激しい曹操軍は呉を味方につけたいと考えています。その証拠に曹操の策略はことごとく失敗して、周瑜はすべて成功している。確かに赤壁で曹操を防いだのは、周瑜です。劉備は陸上で待機して周瑜の追撃軍に加わり曹操を追っただけ。周瑜は江陵を包囲し、劉備は南に兵を進めて武陵、長沙、桂陽、零陵を平定した。それと、孫権が決戦を決めた要因は周瑜なくして語れません。そして、周瑜をやる気にさせたのが諸葛亮です。曹操がやられた!と思ったのは呉を味方に出来なかった事を悔やんだのでしょう。

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