三国志で一番優柔な軍師は誰だと思いますか?
政治なら諸葛亮でしょう。
軍事なら周瑜です。
郭嘉は確かに素晴らしい軍師ですし、周瑜と同等だと思いますが、兵力的には魏軍が勝っているので、劣っている周瑜を一番にしました。
みなさん誤解されていますけど、“優柔”ですよね。
つまり「決断が鈍い」軍師は誰か、という質問になるわけです。
しかし問題なのは、実は軍師・参謀というものは将軍に策を授けてなんぼの人間でして、
自分で決断するということはありえないわけです。というか、決断する仕事をしたらそれはもう軍師ではないんですよ。職域の意味でも、イメージの意味でもね。
強いて言えば諸葛亮が頭に浮かびますが、優柔という表現が適当かというと疑問です。
天才なのはもちろん諸葛亮です。
軍師の定義にもよりますが
策謀家という点ではカクでしょう。
多分ほとんどの人が同じ答えになると思います。
戦略的軍事的に優れた指揮官としては周喩が優れていたと思われます。
中国史でも非常に珍しい圧倒的劣勢の軍が強者を破るという赤壁の戦いだけを見ても、彼が非常に有能で会ったことがうかがい知れます。
主君の覇道の為に軍略面を補佐する王佐の才、という点では曹操が才能を愛した郭嘉や権力争いに敗れた田豊かよく挙げられますが、私は劉備に蜀と漢中を取らせた法正を押します。
人間的には最悪な性格で、自身の出世の為に主君(劉章)を売り飛ばし、劉備の元で高官につくと、かつての自分の上司で嫌いだった人間をことごとくいじめ、自殺に追い込むという暴虐を行っていますが、彼の献策した案は全て成功をおさめ、劉備が呉に申請した際も法正が生きていれば呉を併合することができただろうと言われる程の傑出した才能の持ち主だったようです。
政治的、軍の兵力を増強し、その維持の為に国力を増やすという点では諸葛亮がぶっちぎっていたでしょう。
彼は何度も北伐を行い、幾度かは大敗を喫しましたが、それほどの損害を受けながらも彼が生きていた時代は、蜀の国力は常に潤っていたということです。
外交なら魯粛ですね。
演戯ではひどい扱いを受けてますが、赤壁での戦いは魯粛の外交と周瑜の軍事があったから。
不安定な荊州を劉備にあえてとらせ、平定させた後、後から奪ってしまえばよい。
彼のこの発想がなければ呉は魏との戦いで体力負けしてしまってしたでしょう。
魯粛のいうとおり劉備は荊州を平定し、蜀の地を奪い取ります。
荊州もまた、魯粛の予定通り陸遜の時代、呉の支配下に入ります。
将来の情勢を見極める力では魯粛がダントツでした。
不運にも呉の滅亡は、蜀の地が魏に落ちれば呉はおしまいであり、そのためにはいかなる手段もとならないといけないといった魯粛の懸念通りになってしまいます。
魯粛のいった言葉は今の時代の人には当たり前なのですが、当時、2,30年後先の話を読めていた人物は魯粛をおいてだれもいなかったでしょう。
優秀ですよね。もちろん郭嘉です。曹操が最も頼りにしたのですから実力は間違いないでしょう。長生きしていれば、どうか分かりませんが。
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