三国志について………
三国志から生まれた四字熟語やことわざはありますか?
もしありましたら、その言葉と意味、
そして誰が関連していてどのような状況の時にできた言葉なのかも教えて下さい。
よろしくお願いします。
「三顧の礼」
「呉下の阿蒙」
「君臣水魚の交わり」
「士別れて三日、剋目して見よ」
「泣いて馬駿を斬る」
・・・はもう出ているので・・・
「白波(しらなみ)」
泥棒のこと。後漢末、白波山(はくはざん)にこもった白波賊から。後漢末には、黒山賊など、賊が多かった。歌舞伎の「白波五人男」も、ここから来ている。
「読書百遍、おのずから意通ず」
孫権は腕力ばっかりの呂蒙や蒋欽を呼んで、「お前らも、もはや幹部クラスなんだから、本を読んで勉強せよ」と説教した。
二人は「軍務が多忙で、暇がありません」と言うと、孫権は「忙しいというなら、わしのほうがもっと忙しいわ。だが暇を作っては”史記”、”漢書”、”大学”なんか読んでるぞ。意味が分からなくとも、何度も読んでれば、自然と理解できるようなる。読書百遍、おのずから意通ず、っていうじゃないか」
「危急存亡の秋(とき)」
諸葛亮の「出師の表」より。
「今、天下三分して益州疲弊す。これ誠に危急存亡の秋なり」
「白眉、もっとも良し」
荊州の馬家5兄弟は優秀で知られていたが、特に3男の馬良はもっとも秀才であった。彼は眉の毛が白かったので、「馬氏の五常(五兄弟は字にみんな”常”がつく)、白眉もっとも良し」といわれた。
良いものが一杯あるうちで、特に最上のことを白眉という。
「苦肉の計」
赤壁合戦前夜、黄忠の偽裏切りをもっともらしく見せるため、周瑜は彼を百叩きにした。結果曹操は黄忠の投降を信じ、合戦に勝った。
本来は「成功させるためには、それなりに痛い目に合わねばならない」と言う意味だが、現代日本では「苦し紛れ」と言う意味になってしまった。
このほかにも、「三国志演義」を元に、現代中国が作ったことわざが一杯あります。
「曹操のことをいうと、曹操がくる」(噂をすれば影)
「靴屋も3人いれば、孔明になる」(三人寄れば、文殊の知恵)
「五関のことを言っても、麦城のことはいわない」(都合のいいことは言うが、都合の悪いことは黙っている)
などなど・・・。
まだ出ていない事柄は
七縦七檎(しちしょうしちきん)
孔明の南蛮行で孟獲を七回捕らえて七回逃がした事
脾肉の嘆 (ひにくのたん)
劉備が劉表の幕下で居候していた時、「功績も立てられず虚しく年月だけが経ってしまったこと」を嘆いた故事
老黄忠(ろうこうちゅう)
老いてますます盛んな人物の事。蜀の老将、黄忠から来た言葉
鶏肋(けいろく)
「大した物では無いが捨てるには惜しい、どっちつかずのもの」曹操の漢中征伐で撤退するかどうするかで迷っていた時に鶏を食べながら何気無く言ったのを部下がそう理解した事による
呉下の阿蒙(にあらず)
阿蒙は呉の呂蒙のことで「蒙ちゃん」というくらいな意味です。
呂蒙は若いころ勉強しなかったのですが、あるとき殿様の孫権に励まされて勉強を始めました。
呂蒙はもともと筋が良いのでめきめき力をつけましたから、呉でもかなり優秀な魯粛先輩から
「もう以前の蒙ちゃんではないなぁ」と感心されました。
ここから「呉下の阿蒙」というと勉強しない人、学のない人をいうようになり、そんな人が見違えるように
勉強すると「呉下の阿蒙にあらず」といわれるのですね。
さらに同じ話から「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」という言葉も出てきました。
これは魯粛先輩に「呉下の阿蒙にあらず」といわれた蒙ちゃんが、
「先輩馬鹿なこと言っちゃ困りますよ、男たるもの三日も見なけりゃどう変わってるかわかんないでしょ?注意してみて下さいよ!」
とやりかえしたわけです。
呂蒙は関羽殺しでイメージの悪い人ですが、私の大好きな武将の一人です。
井戸から玉
日本でいえばヒョウタンから駒とにた意
思いがけないところから貴重なモノが出る
後漢の都へ諸侯連合の遠征があり
孫堅?だったかな、孫権の祖父も
参戦していた、孫爺は都の廃墟にあった
井戸から漢皇帝の玉を見つける。
皇帝の玉は権威継承の象徴だったので
孫一族は以後この玉をもって呉の
正当性を主張。
ただし、これは脚色の逸話の可能性大
四面楚歌・・・・・意味は自分で調べてくんなまし。
呉越同舟は春秋の時代。
三国志の呉とは無関係。
泣いて馬稷を斬る
死せる孔明生きる仲達を走らす
などが有名
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