なぜ賀斉は三国志演義には出演していないのでしょうか?
呉の中でも重要な人物のはずなのに、一文字も演義で触れられていないということは、それほどどうでもいい人物だったのでしょうか?
周瑜や諸葛亮の能力を引き立たせるぐらいのことはできたはずですよね?(それは魯粛がやってるか・・・)
三国志演義の作者である羅貫中にしか分からないことだと思います。
多分、彼が話を創作するなかで、賀斉を登場させる必要性を感じなかったのでしょう。
客観的に見ると、賀斉の経歴が山越の鎮圧など、内乱の鎮圧で功を立てている人なので、派手さがないことが理由かもしれないです。
後、中国王朝は異民族との闘争の歴史が多い割りに、史書とかでもあまりクローズアップされていないです。
当時のそういった経緯から、羅貫中は異民族や不服従民対策で有名な賀斉を地味な人と思った可能性は高いです。
他には呉の武将だったことも関係あるかもしれないです(これが大きいかも)。
三国志演義は劉備(正義)と曹操(悪)とした歴史小説なので、孫権(おまけ)の部下はあまり出す必要が無かったのではないかと思います。
そういえば、そうですね。
蜀の対異民族戦は、驚くほど濃い奴らを登場させたのに、そもそも呉の対異民族戦は殆どスルーでしたしね。
孫呉の将だからさ…(笑)というのは
置いといて中原より異民族に関する事柄
が特筆して挙げられるからではないでしょうか?
治安維持を始め太守・長官を歴任し郡県の統合・分割
更には始新郡や新都郡の成立も彼の具申によるものです。
確かに彼も武勲をたてていますが
黄蓋みたいに演出できる場面がなく
合肥から撤退した孫策を助けましたが
「向かうところ敵なしっ!」のイメージを
損ねてしまいますし演義ではパッとしない
曹休を破っても他の武将と比べ見栄えがしません。
加えて豪奢な武装をしている為に引き立て役どまりだと
「単なる目立ちたがり屋か?」の扱いになってしまうかと。
三国志演義は三国志正史と三国志平話を元にして書かれています。演義はチンギス・ハンの建国した元の後期から書き初められて明の初期頃には完成しています。その少し前、元の中期までには三国志平話は完成していて演義の元になる記述を多く含んでいますが、正史で登場する人物でも書かれていない事が多く、それが三国志演義に引き継がれてしまったと言う事でしょう。
劉備の親衛隊で白耳兵の指揮官をした事もある陳到も趙雲に次ぐ将軍でありながら演義では登場していませんから、活躍の度合いや呉の将だからでは無いと思いますよ。
そういう意味では、逆に三国志平話で書かれていない実在の人物で三国志演義に登場する人を挙げるのは難しいんじゃないでしょうか。
呉の人物はどうしても目立たないよね・・・・・。
例えば「孟仁」
というより「孟宗」といったほうが分かりやすいですね。
親孝行で有名な方ですが、
この方の最終官位は「司空」
なのに「三国志」関連として
「孟宗」が語られることはほとんどなく・・・・・。
はっ!失礼しました。
「賀斉」についてでしたね。
他の方がご指摘のように、
異民族討伐がらみの事跡が多いからでしょうね。
「三国志演義」から「三国志」に興味を持った方は
あるいはピンとこないかもしれませんが、
呉という国はこの「異民族討伐(例えば山越)」に相当頭を悩ませており、
この討伐に陸遜・徐盛・・・鍾離牧・・・はマイナー過ぎるか・・・。
とにかく錚々たるメンバーが駆り出されています。
しかし、これ、「三国志」の本筋にはまったく関係のない話なので、
「三国志演義」ではほぼスルーされているというわけなのです。
でも、蜀の南蛮征伐は取り上げていますよね・・・・・。
これは、おそらく諸葛亮の活躍の場・見せ場のひとつとして
取り上げているのでしょうね。
erekutormu777さま
「孫権(おまけ)」
は、ちょっとカワイソウですよ。当たっているけど。
(お前も失礼だろう。)
0 件のコメント:
コメントを投稿