2012年3月20日火曜日

『三国志』巻五十四 呉書九 周瑜伝の書き下しを教えてください。 前に質問した時...

『三国志』巻五十四 呉書九 周瑜伝の書き下しを教えてください。



前に質問した時の回答の続きを,お願いします。







続きです。

曹公の軍の吏士皆頸を延して観望し、指して蓋の降るなりと言ふ。蓋、諸船を放ち同時に火を発す。時に、風盛猛にして悉く岸上の営落に延焼す。之頃、煙炎天に張(みなぎ)り、人馬の焼溺して死する者甚だ衆(おお)く、軍遂に敗退して還りて南都を保る。備と瑜等復た共に追う。曹公曹仁等を留めて江陵を守らしめ径(ただ)ちに北へ帰る。(ここまでが指定の文です)



瑜江陵に還り行装を為さんとすれども、巴丘に道して病卒す、時に年三十六。権、素服して哀を挙げ、左右を感動せしむ。喪呉に還るに当たり、又之を蕪湖に迎え、衆事費度、一に供給を為す。後に令を著して曰く、故将軍の周瑜程普は其れ人客有るも皆問うを得ずと。

初め瑜策に友とせられ、太妃又権をして兄を以って之を奉ぜしむ。是の時権の位は将軍たりて、諸将賓客の礼を為すこと尚ほ簡なるも、瑜独り先んじて敬を尽くし、便ち臣の節を執る。性度、恢廓にして大率(おおむね)為に人を得たり。惟だ程普とのみ睦まじからず。瑜少くして音楽に精意ありて、三爵の後と雖もその闕誤(かけ、あやまり)有らば、瑜必ず之を知り、之を知らば必ず顧みたり。故に故人謡いて曰く曲に誤り有らば、周郎顧みると。



この後に子孫の話があるようですが、手元の原文になく、ここまで書き下しました。

【恢廓】1.かい‐かく[クヮイクヮク]〔形動〕ひろびろとして大きいさま。また、心の大きいさま。

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